天から剣が降ってきた―資料紹介

                六D班  結 城 英 則

 昨今の話題ではあるがPM2・5という微粒子が大陸から飛んで来るとか、黄砂がやってくるとの天気予報が気象予報士の口から解説される事が増えてきている。空からは雨・雪・霰・雹などが手紙を届けてくれるし、隕石が地球の向こうからやってくる事もある。今春ロシアに巨大な隕石が降ってきたのは記憶に新しい。厭なのは爆弾が降って来る場合である。最近も我儘にもミサイルを放つと云う迷惑な話が連日報道される。日本では空から魚が降って来たとのニュースが新聞・テレビを賑わす時がある。何者が落して行くのであろうか。

 千葉市の大動脈である総武線蘇我駅の近くに浄土宗の大厳寺という古刹がある。この御寺には「魚降森」と題する一幅の掛け軸が所蔵されている。寺の境内のリスもすむ林の木々の間をカレイやタコやイカなどが焚き火をしている童子の上に降ってくる様子が、一匹一匹丁寧に、色彩豊かに描かれている。その絵には落とし主のヒントが隠されており絵の上辺に鵜が数羽表わされている。実は大厳寺の魚降森の魚の落とし主は境内林に営巣するカワウであったのだ。大厳寺の境内の〈鵜の森〉では昭和四十年代後半までカワウの集団営巣が見られたという。大厳寺の「日鑑」をみると周辺の農家の人が境内の鵜森に来ては筵を置いて、糞は肥料にし魚を家畜の餌にしたという。(ウの糞は硝酸加里肥料になる。)よく知られていることだがウは集団で樹木に営巣し、その排泄物である糞で樹木を枯らす鼓でが知られている。シラサギの集団営巣による樹木枯死問題もしさられている。大厳寺の魚降森も例外ではなく枯れかかったという。「昭和二五(1950)年、上野不忍池に引継がれて生き残った。カワウの糞で樹木が枯死するため間引きが行われ、捕獲された一九羽が上野動物園に送られたのだ。」という。唐沢孝一氏によれば「カワウは、一方では都会で繁殖する数少ない大型水鳥として貴重であり、他方では、糞によって庭園内の鬱蒼とした森林を枯死させてしまう害鳥でもある。」(この項は唐沢孝一「江戸東京の自然を歩く」)

 大厳寺の開山道譽上人については、成田山新勝寺縁起に拠れば「総州生実大厳寺の開山道譽上人は、天性愚鈍にして学業の進み難きを嘆き、嘗てこの尊に帰依し参籠持念する事百日、期満ずる夜の夢に、不動尊持ち玉ふ利剣を呑むと見て即ち覚めたり。覚めて後これを見れば黒き血流れて床の辺りを穢せリ。然して後慧解人に勝れ、終に大徳智人と為り玉ふとぞ。」との興味深い話がある。

 祐天大僧正御伝記によれば、祐天上人の場合も「この度の立願は、命を惜しみ身をかばふごとき愚かなる願掛けに非ず、思い詰めたる事なれば、必ず三七日篭り、真の不動の尊体を拝し、智恵を授かり終るまで、中々国へは帰るまじ…奇や今まで晴れたる空、卒に震動雷電して、岩を砕き、石を飛ばし、御堂の震動ただ事ならず。祐天少しも畏れ給わず、一心不乱に不動を念じ、仮令岩に摧かれても、一心の魂魄爰に止まり、真の不動を拝し奉らずンば、体は微塵とならばなれと怒りの眥裂が如く、口に不動の御名を唱へ、動ずる気色なかりける。猶も奇は今まで別当の僧と思いしが、卒にその長一丈許の不動と現れ、御身より火焔を出し、左右の御手に長短の利剣を提げ、善哉善哉、吾は是成田不動なり、汝が丹誠無二の念力類なき事を感じ、今現れて示す者なり。…この(長短)二振りの中、長きを呑むべきや、短きを呑むべきや否や。祐天慎んで曰く、…余長きを呑まむと、大口を開いて待ち給えば、忝くも不動尊、呪を唱へ給ひ、右の御手の長きを、情けなくも祐天の口へ刺したまえば、わっと言って俯き、其の儘絶果てにけり。…別当仰天したまひしが…即座の護摩を焚きたまひ、…祈りたまへば、ほっと生きをつき、むッくと起きて別当に向かひ、…。立願成就して真の不動の尊体を拝し、智慧を授かり候なり。その外剣難の次第、不思議の事ども、一一に語りたまえば…」と伝えられている。その他伝記には、土浦の浄福寺にて説法を行い帰る時に、法華宗徒の襲われた際、不動尊雷雨を起こして防いだとの話しなどが載っている。茨城に縁が深い上人は常総市の弘経寺に住持した折、怪談で有名な累の霊を解脱させたりもしている。

 天から剣が降ってきたという処がある。茎崎の天宝喜にである。

天宝喜の十字路に鎮座する厳島神社通称弁天様の縁起によると次のように記されているという。平賀迪也氏が記した「天宝喜厳島神社と宝物等の由来について」に従ってひも解いて行こう。

 「昔々昔、当地の原野にひとつの堆塚があり、夜々不思議な紫の光を発しはじめたので、里人が恐る恐る近づき調べたところ、一口の剣を発見した。里人たちは、これは神様が天から降らせた霊剣に違いあるまいと、丁重に持ち帰り、「天の宝剣」と呼び祠を建てて納め更に占ったところ、「是正しく弁財天の宝剣なり、ゆめ忽せにすべからず」と卦に現れたので里人達は大いに驚き、且つ喜び益々篤く崇めて常に弁財天の祭祀を怠らなかったという。ところがある時、一人の雲水が飄然としてこの里に現れ里人から宝剣の由来を聞かされた。

 偶々この雲水が背負っていたのは弁財天像であった。里人たちがそれを謹み拝すると、慈眼優麗、尊容瑞厳、粛然襟を正さじめる程の如何にも優れた木像であったが、奇しくもその右手に有るべき筈の宝剣だけは持っていないので里人たちは不審に思ったが、雲水は厳かに「この里こそ弁財天の鎮座すべき宿縁の地なり」といい、その尊像を里人達に託し、何処ともなく立ち去ってしまったという。里人達その雲水のなされ様に、よほどの高僧か神仏の権化でもあったろうかと深く信じ以来この里では、この尊像を天の宝剣と共に天宝山観音寺を別当として愈々丁重に祀り続けたと云うことである。後、尊像には、これに応じ小剣を持たせたということである。そして元和年間更に大きい社殿を建て直したのである。つまり天より降れる宝剣を得、郷民大いに喜び祀ったということから里の名が天宝喜と呼ばれるようになったというわけである。」

 弁天様こと厳島神社について「稲敷郡誌」によれば「一名弁財天と称し、大同年間岩崎字泊崎に於いて空海上人千座護摩修行の際其灰燼を以って作られたもの即ち其神体なりと伝う堂宇の創建は元和の年にして正徳元年に再び再建し足るものなりその他は不詳」とある。平賀氏に拠れば創建は大同年間とも弘仁三年(812)とも言われ、元和年間再建されたが、延宝年間(1670代)に火災に遭い、宝永三年(1703)に再び建て直された。社宝として「弁財天霊剣記」(元和五年1619)・「弁財天霊剣仮名記縁起」(享保元和十五年1725)・「弁財天霊剣真名縁起」(享保十三年)が伝わっている。社殿格天井には地元の蛯原常吉による絵が明治中期に描かれている。

尚、厳島神社には下岩崎守徳寺と同型の護摩の灰弁天像所蔵をするが、その弁天像由来について「天宝喜厳島神社と宝物等の由来について」引き続いて解説しているが別稿に譲ることとする。別当寺の天宝山観音寺は廃仏稀釈で廃寺となっており祭神が弁財天ではなく市杵嶋姫命と代わっている。弁財天は元来インドの神で河川を神格化し、上野不忍池にある弁天堂のように池(湖・海)が周囲にあることが多く、天宝喜の弁天様も池に囲まれている。

参考文献  利根川図誌 柳田國男 岩波文庫
     江戸東京の自然を歩く 唐沢孝一 中央公論新社

        茎崎町の名所・旧跡 平賀迪也 私家版