忘れられた地震と鯰の話

               6D班  結 城 英 則

 【始めに】平成23年3月11日は日本国中に驚きをもたらし哀しみと共に歴史に深く刻まれる事になるだろう。また平成23年3月11日は歴史のターニングポイントともなるだろう。平成23年3月11日を経験した我々は、歴史の一歩前に進み出たといえよう。我々は百尺の竿頭を一歩跳び出たのである。否、跳び出ざるを得なかったのである。そこで、我々は眼横鼻直を体し、山川草木の声を聞き、宇宙の響きにリズムを合わせなくてはならないだろう。

 【龍ヶ崎地震】さて、「災害は忘れた頃にやってくる」とは寺田虎彦の名言である。龍ヶ崎地震をご存知だろうか?大正1012月8日関東地方を揺るがせたM7の地震である。待てよ、関東大震災と違うの!とお思いになる方も多いと思われます。大正12年9月1日の約一年半前に関東地方を襲った地震があったのです。茨城県、龍ヶ崎をはじめ、藤代、茎崎の郷土史を見ても大概記載がないのです。龍ヶ崎は茎崎のお隣です。マグニチュードが7という地震です。先日、龍ヶ崎の歴史民俗史料館を尋ねて、資料を求めました。帰宅して資料を呼んで見ますと、なんと震源地は元々龍ヶ崎ではなかったのです。当初から震源地は松戸辺り(牛山説)と鹿島灘辺り(大森説)との二説がありましたが、後年検討した結果土浦辺りであった事がわかりました。では、何故龍ヶ崎地震と名付けられたかはわかりません。不思議な事です。最近の研究成果によると龍ヶ崎地震は(石橋克彦「大正10年龍ヶ崎地震の震源地について」地震Vol125、No2)、「1921年(大正10年)12月8日2131分頃千葉県北西部ないし茨城県南西部付近に発生してこの地方に多少の被害をもたらした地震である。気象要覧は震央を140・1度E・35・8度Nなる龍ヶ崎付近としているが、震源の深さは与えていない。(この経緯度の地点は龍ヶ崎から15qも離れているので表現がややおかしいが踏襲されている。)」「大正10年の龍ヶ崎地震に関して、(@)自身計測学的震源は…茨城県土浦付近(14010分6秒E・3603分1秒N)にあること、(A)深さが60q程度であること、(B)震源における破断はそこからほぼS30度Eの浮きに30qぐらい進行したと考えられ、…」るとする。当時の牛山高見による報告(「12月8日夜千葉県印旛沼附近の小破壊的地震につきて」)では、「十二月十七日茨城県龍ヶ崎付近に出張せし本台国富技師の概報」によると龍ヶ崎付近に出張調査した概況として、「南中島・紅葉内、道仙田・長沖で墓石等の石塔が転倒し、豊田では数条の亀裂が入っており、田地中の数条の亀裂から砂を噴出していた」と記されている。この記述から液状化も起こったものと考えられる。

 【要石】二・三年前岩瀬方面(桜川市)に遊びに行った事があります。岩瀬は世阿弥作の謡曲「桜川」の舞台で有名です。桜川が流れる磯部桜公園は名勝であり、磯部稲村神社の参道に咲く桜を含め「桜川の桜」は国の天然記念物となっております。紀貫之は「常よりも春辺になれば桜側 並みの花こそ間なく寄すらめ」と後撰集の詠んでおります。天然記念物の桜が境内に生えている磯部稲村神社にお参りしました。そこに奇妙な石があったのです。〈要石〉です。〈要石〉といえば鹿島神宮です。赤松宗旦は利根川図誌では「要石 地上に出でたる所二尺許、石塔に少し凹ありて、丸き石なり」と記している。鹿島の〈要石〉は凹形で鹿島神宮の〈要石〉が暴れる鯰を押さえて地震が起こらないようにしているのだ、と言い伝えられております。しかし、今回の地震で鹿島神宮の大鳥居も壊れてしまいました。磯部稲村神社の〈要石〉の説明では、鹿島の〈要石〉を押さえているのは岩瀬の方であると書いてありました。鹿島の〈要石〉は凹形で岩瀬の方は凸形であります。桜川は岩瀬に発し霞ヶ浦に流れ込み、鹿島に通じております。

 【鯰】鯰とはなんだろうか、末広恭雄(魚の博物事典)によると、ナマズ 鯰 ナマズ目ナマズ科 「ナマズは真水の魚として、コイ、フナ、ドジョウ、メダカなどと共に我々になじみ深い、日本のみならず、広く東洋の河川、湖沼に生息しているので中国でもナマズはよく知られている。ただ用いる漢字が違うので、とんだ間違いを起こす事がある。つまり、中国の漢字では、日本で使っているアユ、即ち「鮎」がナマズなのである。ナマズは体調50センチ以上にも達する緑褐色の魚で、頭がずんぐりと丸く、尾に向かうにしたがって、細長く伸びている。体には鱗がなく、口は幾分上方に向かい、口辺に左右二対のひげがある。一対は長く一対は短い。胸鰭には棘がある…。」

 「ナマズはなかなかの貪食である。…沼や川の生物にとって、水中のギャングというところであろう。」と記し、加えて、「外国の記録を見ると、ナマズの寿命が60年以上だとかかれている。魚にして60年といえば大変な長命で、おそらく魚中の最長記録だと思われるが、所謂「池の主」たるの資格は十分である。」と述べている。

【鯰と地震】池の主・鯰と地震の関係について末広恭雄は、二つの見方があるとして、一つは地の中で大ナマズが暴れると地震が起こるといった考え方で、「瓢鮎図」や、鯰絵や、郷土玩具等に見られるように、「その何れもナマズが暴れた結果、地震が起こるといった考え」で原始的な思想であるとし、もう一つは「ズット科学的にナマズと地震の関係を説いたもの」で「地震に先立ってナマズが常ならざる行動を示すという事実を捉えて、ナマズが地震を予知する能力を持っているとした考え方があり見方がある。」と見ている。

1.「安政見聞誌」により、「安政二年十月二日の江戸大地震の少し前、本所永倉町に住む篠崎某という人が、…川に出かけていった。すると常ならばウナギがかかるのに、その世に限って川の中でナマズが騒ぎ立てるので、少しもウナギが獲れなかった。そこでかの人思えらく「さて今宵は何ゆえにかくもナマズの騒ぐやらん、ナマズの騒ぐときは地震ありときく、さることもやあらん」と急いで我が家に取って返すと、女房らの笑うのも聞かず、家財を庭に持ち出したところ、まもなく大地震が襲ってきたというのである。

.「国民新聞」に大正12年9月1日の関東大震災の前日に某氏が連れと向島の料理屋に昼飯を食べに行った時、「庭の池でしきりに水音がする。そこで女中にコイでもはねているのかと聞くと、「いえ、ナマズが跳ねておりますので」というので、その場は「ああ、そうか」というだけで済ませたが、その翌日大震災が起きたので、さてはそのためにナマズが騒いだのかと思った」という話が載っているという。

 末広氏自身「…私がかつて全国的に書類で問い合わせた結果から見てもナマズをはじめとして、色々な魚が地震に先立って常ならざる行動を取る事は、一様真理として認めてよいようだし、1932年のは畑井博士と小久保博士はナマズを水槽にかって実験した結果、ナマズが地震の前に興奮すると云う事実を突き止める事ができたのである。」としながら科学者だけに、「ただし断っておきたいのは、なまずが騒いでも必ず地震が起こるとは限らないということである。」とまとめている。

 【鯰絵】鯰と地震の関係について、末広の云う、大ナマズの暴れた結果地震が起こるという原始的な考え方について考えてみたい。鯰をモチーフにした絵に「瓢鮎図」がある。京都退蔵院所蔵の如拙が表わした絵である。禅の公案を題材にした作品である。一人の男が水辺でひょうたんを手に、さて鯰を捕まえようとしている図である。大津絵に流れ込み男が猿になり、歌舞伎の「瓢箪鯰」になってゆくという。

 鯰絵について気谷誠は、次のように解説している。(「鯰絵と厄払い」)「一般に「鯰絵」と呼ばれるものは安政二年(一八五五)十月二日夜、江戸を襲った大地震が死者一万人あまりを数える大災害を引き起こした直後から短期間に大量に出版された鯰が主人公の絵をさす。」

寛永元年(1624)刊の「大日本国地震乃図」にみられる日本を取り巻き環になった竜の図像、それがいせこよみなどに引き継がれ、寛文五年(1624)と推定される「塵摘問答」のウロボロスの説明に「日本をまく鯰に要打つ」とあり、この頃から龍が鯰に変わってゆく。「震災後の江戸の人々のあいだで、鯰はちょっとした人気者なのである。」

「鯰絵に見る限り、地震(地震鯰)に対する江戸の人々の感情は、今日の目に不自然に映るほど、明るく好意的で、ユーモアのセンスに充ちている。

 鯰絵の中で人々は、地震を起こした鯰を懲らしめる一方、逆に鯰を歓待して復興景気を煽り、金持ちから鐘をゆすり取った鯰を世直しのヒーローに仕立て、世間の景気を直す鯰薬なるものまで考案する。仕舞には地震絵のご新造をありがたく拝む人々さえ現れる始末である。」

 【鯰と鹿島の神】宮田登は「江戸のはやり神」に於いて、 地震鯰と鹿島の神について、頼山陽が五言絶句で、「大魚坤軸を負う、神有り其首を按ず、稍怠れば即ち掀動す(略)」と詠んでいる。「鯰と鹿島神の関係を言ったもので大地の軸を鯰が背負い、其首を鹿島神が要石で押さえつけるという信仰は、鹿島信仰が民衆の間に浸透していった近世初頭以来流行し始めたのである。要石は、ふるい神社には良くある祭神の影向石、或いは御座石で、要するに一種の依り代である。…大変災による不可抗力なカタストロフィを将来するものが、それを予知する鯰であると同時に鯰其ものだと信じられている。」のである。

 当時地震の威力について風怪状に次のように述べている、「城をゆり潰し、大地を動かし高山を震崩し、大河之流れを留め土中より泥水を吹き出し。剰人馬多く為致死失、一郡不残亡所に相成候義有之、全く泥海に可致心底重々不届の付、向後改而常陸神へ御預、奈落へ蟄居申付候」とある。地震に対し重々不届なので鹿島の神の下で蟄居していてくれと書かれている。

「大地震や大津波の記事を当時「末代噺」と表現しているのは、大地震による現世の終末を意識した上のことであろうか。」
 「ちちんぷいぷい」で神崎宣武は「鯰絵は、つまり風刺絵である。その多くはナマズが暴れまわるのを鹿島の神が要石で押さえつける図である。…かくして、鹿島信仰は、江戸期を通して広く民間に浸透していった。」

「揺ぐとも、揺ぐとも、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」

 【心的現象としての鯰】江戸時代末期の人々の心的現象、共同幻想の構造は如何であろうか。

 神崎宣武は「ナマズは土気の精」と説く吉野裕子の陰陽五行に基づく論を紹介して、「泥中に潜むこと、扁額で方形の口を有すること、「鯰」の「念」が「鬼」に通じ五事(貌・視・思・言・聴)の中央(土気)にあることから、土中の精を有する怪魚とするのである。この土気の怪魚ナマズが動く事で地震が生じる、…」さらに、「ナマズの両義性を持つとする吉野説に触れ、五行相生では土生金(土は金を生ず)。つまり土は金属を産する。…五行相克では木刻土(木は土にかつ)。つまり樹木はどの養分を吸い取る。ということから、土性のナマズは金気に強く、木気に弱い。そこで地震を収めるには、木気の(東方)のカミを呼んでくればよい。そして常陸の鹿島神が地震伏せのカミとして、特に江戸の町人から信仰されたのもその方位性(江戸から見ると鹿島が東方)にある、とするのだ。また地震のあと「世直し鯰」として祭り上げられたのも、土性の鯰が銭(金)を生んで施してくれるだろうとみた証である」。と説いている。

 神崎宣武によると(「ちちんぷいぷい」)、「地震鯰は観念的な産物なのである。」「人々の持って行き場のない失望や不安を怪魚ナマズのせいにすることで軽減する、そうしたある種の作為があったに相違あるまい。個人の異常に対して、キツネやオオカミやイズナなどが憑くとする、その心意現象と共通する。天災にあらず、人為にあらず、動物霊の悪しき変異とすることで、人々は気分を転換して再生をはかろうとしたのであろう、それを末代噺とするのも、地震で崩壊したところでその中の再生が叶う、とするからである。」

「世直し鯰の情と題するナマズ絵がある。これは、鯰男が被災者を助け出している図である。鯰男が金持ちを脅して大判小判を吐き出させて世直しを図ろうとする図もある。ナマズの責任とパロディ化することで、現実の悲観を和らげて将来を楽天的に見ようとした、とみるべきだろう」。

 安政の当時ナマズは一種の流行神であった。宮田登は「江戸のはやり神」に於いて、「日本のフォークロアは、変災の予知を魚族の王たちが行なってくれることを語ってくれる。それはかつて柳田國男が「物言う魚」として指摘した事であった。」とし、鯰も物言う魚であったのだ。鯰を始め「巨大なうなぎや岩魚は、水中に潜む霊威の主であり、魚族の王とも言える強力な存在だと人間は考えていた。それは自然に対する人間の挑戦が始まって以来、水の災いのもたらす災厄、とりわけ生命を奪うような災いが生じたとき、その事件の場所近くに姿を見せた動物が即ち水の威力の本体だと信じられたためであろう。…」「自然の破局の寸前に人間に警告を与え予言する事は、一方から言えば、終末から人間を救う行為である。そうした思考をはっきりとさせているのは所謂地震鯰の予言であろう。」

 地震のように不意にやってくる災厄から逃れるために、厄払いや厄除けが行われた。震災後の鯰絵の流行は鯰絵で地震を祭り上げ、笑い飛ばして、心の迷路から抜け出す為に江戸の人々の知恵が隠されていたのではないのかと気谷誠はまとめている。つまり、不定期的な厄払いの特徴的な点は、「この悪神と敵対して戦うのではなく、いったん迎え入れて歓待し、ころあいを見て引き取ってもらうことだ。厄という悪を神に仕立てて、しかもこの神を善神としてもてなし、いい加減懐柔したあたりで送り出す。…とても適わないと見て取った相手とは決して戦わず、敵対しないように振る舞いながら適当に祀り上げ、最終的にはお引取り願うのである。

 不意をついて襲ってくる災厄には、誰も抗えない。… 懐柔型の厄払いとでも言うのだろうか、災厄に正面きって敵対すのではなく、いったん同調した上で忘れ去る。その対処のプロセスが、鯰絵に盛られる江戸庶民の地震観に繋がっていると思われるからである。姿の見えない敵は恐ろしく感じられる。…相手が見えないのでは対処の方法も探れない。何時までも不安におののくばかりである。」

【終わりに】現在の我々も姿が見えない敵=放射能への対処を迫られている。東北太平洋沖地震発生により現代文明の産物原子力発電所を津波が襲ったのだ。福島第一原子力発電所は自然のエネルギーの前にはなす術もなかった。第二次世界大戦は広島・長崎への原爆投下で強制終了され、現在失われた10年を求めて長い停滞期に入った我々は、さまようオランダ船のように再び強制終了させられたのである。世界史的に稀な二度目の放射能による強制終了は、我々を何処へ誘ってゆくのだろうか?

パンドラの箱が2回も開いてしまったのである。しかし我々は、百尺の竿頭を一歩跳び出たのである。焦土の町からフェニックスが飛び出たように。世界を変えるべく荒野へ一歩を踏み出したといえるだろう。時間の矢は巻き戻すことが出来ない。エントロピーの荒野が我々の前に待ち構えているのだ。此処で飛ぶのだ!ここがロードス島なのだ!ヘーゲルは言う、一度目は悲劇だが、二度目は喜劇だと。否、俟て。ウンベルト・エーコが「薔薇の名前」で探していたのはアリストテレスの「詩学」の失われた論考、「喜劇」=「笑い」であったであった。涙に勝るのは笑いだと…疲れたら休みながら笑いながら、出来る範囲で。…

 最後になりましたが、東日本大震災でお亡くなりになった方々に哀悼の意を表すると共に、被災された方々にお見舞いを申し上げます。

 尚、自由ヶ丘における被災状況については「東日本大震災による自由ヶ丘の被災状況」報告書を閲してください。