自由ヶ丘を探る―資料探偵 6D班 結 城 英 則 【始めに】自治会班長会役員会月例報告平成22年2月号に次のような報告がある。「【教育】茎(崎)中(学校)生、公民館に来訪1月27日(水)、自由ヶ丘に住む茎(崎)中の一年生八人が公民館を訪れました。 【(注)尚、波線は筆者による】 集落誌 下岩崎には、 2茎崎町都市計画マスタープラン2000-2020(平12年) 表2‐2主な住宅団地 「団地名 1自由ヶ丘 時期 S46〜51 面積(?) 約31.1 区画数(戸) 1、056 開発主体 民間開発 事業法 旧宅法」 「住宅団地は昭和40年(1960年)代後半、旧住宅地造成事業に関する法律第4条の許可又は都市計画法第29条許可により、民間の建売分譲住宅として、町内の現在の市街化調整区域として開発されました。そのため、団地周辺の土地利用との整合性、周辺道路との関係性、通勤のための交通の利便性、日用品店舗へのアクセス等、べんりで快適な都市生活を送る上には問題な点もあります。」 3 くきざき 合併までの奇跡(平成14年) 「昭和57年 自由ヶ丘・あしび野住宅団地に入居始まる」 4 .広報 くきざき 38(昭和61年5月20日) 自由ヶ丘地区の『字の区域・名称の変更』について 「自由ヶ丘地区は、上岩崎、下岩崎及び庄兵衛新田の三つの大字が錯綜しているため、土地の所在の確認や文書・郵便物の配達等住民生活はもとより行政運営上でも大変不便を来たしています。 こうした状況の中で、字の区域・名称を変更し、統一してほしいとの強い要望があり町でも行政運営上の効率化等の観点から検討を重ねてきた結果、この度、関係者との協議を経て、左図の区域の変更する準備を進めています。」 5 広報 くきざき 40(昭和61年8月20日) 「自由ヶ丘地区『字の区域・名称の変更』の決定」について昭和61年8月11日より自由ヶ丘地区の字の区域、名称が変更になりましたのでお知らせします。また地番については現在の地番をそのまま使います。」 『資料二.自治会資料(自由ヶ丘自治会)』 6「自由ヶ丘」に住んで 「私たち一家が自由ヶ丘団地に引っ越して参りましたのは、昭和四十八年十二月。当時は団地とは名ばかりで、居住者は私たちを含めて確か六家族で、バスも一日三〜四本程度で、周辺の道路は未舗装で、車の通行はほんとうに少なく、自由ヶ丘団地の中も造成工事が盛んに行われていました。 私が住民登録に行った村役場は、木造二階建てで、現在、筑南広域の消防車が駐車している場所に建っておりました。役場への往復で渡った東谷田川の木の橋のたもとには、森ノ里団地はまだ無く、牛久沼の延長線の田園風景でした。…」 7「団地・自治会活動を振り返って」の自治会結成時の回想 千代倉 治郎(1A)「広報自由ヶ丘」平成12年9月15日 「昭和五十二年当時、団地の戸数は40戸程度で細見の区長の統制下に置かれておりました。名目は兎も角、烏合の衆の集まりに近いものでした。これでは不都合と団地独自の自治会の必要性を唱えたのは深谷さんでした。深谷さんの呼びかけで有志が集まり、協議し諸般の手続きを経て、深谷さんを会長とする自治会は誕生しました。 何も無いところからの出発で、苦労の多い時代でありました。以下、思いつくままも関心事を拾って列挙してみましょう。 一略 二 自由ヶ丘の地名確定について: 産報の販売に当たって使った名称は『つくばね自由ヶ丘団地、正式の住所表示は、私の家など下岩崎○○○番地で、他に井頭台とか庄兵衛新田などという地名もありました。そこで村当局と話し合いの結果、周辺一帯を含めて『自由ヶ丘』の呼称に統一されました。…」 8「自由ヶ丘の歴史」(平成18年 伊藤政人) 「3.自治会結成、その後の歩み(昭和52年〜昭和58年) (1) 自治会結成まで 自由ヶ丘の名称由来は、この地を開発販売した産報開発株式会社が、牛久沼湖畔「つくばね自由ヶ丘」高級住宅地として売り出したのが始まりです。この団地は、昭和40年代前半から、第一期(1班地区)、第二期(2班地区)、第三期(3班・4班地区)、第四期(5班地区)、第五期(7・8班地区)と順次造成され、その区画総数573区画と茎崎村内初の大団地が誕生しました。田中角栄が日本列島改造論を引っさげて首相となり、日本全国土地ブームの最中、都心への通勤範囲で入手可能な場所として、交通が不便であっても飛ぶように売れ、その後第六期(6班地区、4班地区)、さらに遊園地予定といわれていた9班〜13班地域も造成されます。自由ヶ丘は、土地だけの販売のため、住宅建設は第一期の造成地からぽつりぽつりと建ちはじめ、それはまさに自由に、思い思いの夢と希望を込めた住宅が建設されていきました。昭和51年始めで、ようやく30戸ほどに達し、その後の建設の足取りは月2戸から3戸の割合で増えたにすぎません。 昭和52年に入って、団地の戸数も40戸ほどになりましたが、茎崎村の行政区域は細見地区に置かれ、都会地から移住してきた新住民の生活の場としては不便を感じても、細見地区に昔から住んでいる住民から見れば何を贅沢なことを、という新住民と旧住民との感覚に大きな隔たりがありました。 いわゆる新住民のほとんどは、東京方面への通勤であり、交通の便が悪く、近くにお店もないことから日常生活にも支障が生じ、団地独自の自治会(行政区)が必要であるとの声が強くなり、深谷さん、千代倉さんらが先頭になって自治会の結成を唱え、その呼びかけのもと有志の方々が集まり、結成準備会がつくられ、自治会規約の検討と自治会結成の準備が進められたのは自然の成り行きでした。 (2) 自治会結成後の活動 昭和52年11月、自由ヶ丘自治会の結成総会が細見地区の公民館で開催されました。総会では、準備会で検討してきた規約等を承認し、会長に深谷稔氏、副会長に千代倉治郎氏、寺内一郎氏を選出しました。 千代倉さんは、自治会結成時の回想録で、「何しろ何もないところからの出発で、苦労の多い時代でした。」と語っています。 深谷会長時代の数年間は、自治会の基礎作りで以下の課題に取り組み、それが今日まで継続的に取り組まれているのが特徴的であり、また感動的でもあります。 55年7月12日に、自治会に広報部、環境衛生部、文化運動部が設置され、具体的で且つ実効性のある運動が展開されるようになりました。 @略 A 自由ヶ丘の地名の確定のための村当局との話し合い 昭和56年4月、深谷会長は、自由ヶ丘地区の地名について、前述のように造成地が分散されているため、地名が大字だけでも上岩崎、下岩崎、庄兵衛新田があり、小字では細見、大船戸台、干泥、井頭台など複雑になっており、手紙を書くにしても字数が多く皆さんは困惑しているので、住居表示を「自由ヶ丘○○番地」に改める運動を行いたいと語り、その後村当局に要望しました。 昭和62年8月11日、字区域の名称変更に伴い自由ヶ丘地区の住所表示が「自由ヶ丘」になりました。要望から実に6年の歳月を要しての実現でした。」 「 C 自由ヶ丘子供育成会の活動(初代会長・栗田正勝(5班) ・昭和51年頃,自由ヶ丘がまだ細見地区に所属していた時期に,栗田正勝氏(4班(現5班))が中心となって自由ヶ丘子供育成会の前身である子供会が作られた。小学生十数名が夏休みには栗田氏の指導のもと写生が行われ,その後も毎年の行事として続けられた。」 【自由ヶ丘自治会略年表】 昭和46年〜 つくばね自由ヶ丘団地造成事業(旧産報開発関連) 昭和51年頃 子供会結成(会長 栗田政勝 五班) 52年11月 自治会結成(会長 深谷稔 一班) 55年7月24日 広報自由ヶ丘発行 56年3月 自由ヶ丘公民館竣工 1〇月 つくばね会結成(会長 千代倉治郎 一班) 8月22日・23日:第一回自由ヶ丘夏祭り 12月25日 納税組合取次ぎ開始 57年 自由ヶ丘団地管理組合結成 58年1月1日 茎崎町制施行 61年 8月11日 自由ヶ丘地区「字の区域・名称の変更」 62年11月三〇日 つくば市誕生(四町村合併・63年筑波町) 63年1月31日 公民館増築 平成1年 茎崎町誕生100周年 3月 茎崎町史発刊 平成8年 公共上水道供用開始 平成11年 公共下水道の供用開始(一部)順次整備 平成14年11月一日つくば市と茎崎町合併 平成18年 「自由ヶ丘の歴史」発刊 資料三 写真資料等 尚、写真につきましては伊藤達也会員からの提供写真と筆者所持の写真を使いました。 【その他】 自由ヶ丘地区においては、開発事業主「産報」と共に、特に旧産報開発地区の一部の販売を引き受けるようになった「国家公務員共済組合」が大きく関っている。それ以外に北斗建設、細田工務店・日本観光等複数の業者が関わっている。 北斗建設が携わったのは、6C・D班の場所である。この場所は桐畑が広がっており、自動車教習所の建設予定地だったといわれていた。「産報」とは別に、北斗建設は造成事業と土地の販売を行った。資料的には、宣伝材料を見るに自由ヶ丘団地は記載されてない。 細田工務店は、9班〜12班の場所の一部に関わってくる。産報造成地区ではあるが、細田工務店が国家公務員共済組合の分の一部を引き受け建売住宅として販売したものである。 日本観光も販売を引き受け自由ヶ丘の中に散在している。 旧産報と共に国家公務員共済組合関係及びその他資料は散逸し、乏しいのが欠点である。地区の誕生の歴史を探るに資料等提供くだされば幸いである。本稿につきご意見があれば、証言として後日のために残してゆきたい。 |