つくばに県庁があった

                                                 6D 結城 英則

 茨城県の県庁は何処ですかと聞かれて、「水戸」と答えるでしょう。県名と県庁所在地の地名が異なる県は何処ですかと今はやりの常識クイズの問題にはなるかも知れませんね。ところが、昔つくば市に県庁が置かれていた事があったのです。
 学園西通りが学園東通りと合流する大穂の交差点を直進して、筑波・小田方面に進むと桜と筑波・北条を結ぶ県道に出ます。信号を左折して、幅員の狭いアップダウンの道を行くと大穂・若森に出ます。若森集落外れの台地上に木々に囲まれた畑・宅地に県庁が置かれていたのです。県名は若森県。初めて聞かれた方も多いと思われます。北条に行く県道沿いにひっそりと県庁跡の解説板が置かれています。私有地に付き遠慮願いたいとの掲示もありますので、ご注意頂きたい。 明治元年六月二七日常陸知県事の下に置かれ、明治二年二月九日版籍奉還により一八五ヶ村により若森県が置県され、若森の旗本陣屋跡に県庁が置かれた。しかし明治四年廃藩置県により新治県に統合され、県庁は土浦に移り、明治八年茨城県、千葉県の一部が合併して現行の茨城県となり、県庁は水戸に置かれた。若森県の命はわずか三年間であった。
 又、龍ヶ崎市は龍ヶ崎県・宮谷県の管轄であり、龍ヶ崎歴史民俗博物館には宮谷県の旗が展示されています。
 若森県の庁舎は旗本堀田氏の陣屋跡に置かれた。知県事の池田徳太郎は県庁舎の建設地選びを目的に巡見を行った。筑波・神郡、大穂・若森、大穂・玉取を候補地として巡見した。その結果若森の地が選定された。「若森村への決定理由には若森村が三候補地の中央に位置する好条件と、若森村内に旗本陣屋跡の空き地があり、同村村役人の勧誘運動があったからであろう。」と筑波町史は述べている。移転までの時間が足りず周辺の旗本陣屋・寺院等を利用して仮の施設とした。明治四年の春までに支配役所は完成したが、半年足らずで主を失うのである。県庁は庁舎、官舎、獄舎などで構成されていた。県名は庁舎の建てられた地名に寄る。
 若森県の支配地域は下総国三郡、常陸国五郡内の天領、旗本領を合わせたものであった。若森県の支配組織は知県事を始め五五名の職員で業務を行った。知県事の下に大参事・小参事がおり、会計、租税、監察等に部局が分かれていた。村支配としては組合村を利用し、大総代を勘農役を任命し、道案内人を利用した。組合議定書を作成し村支配の掟とした。「何等の新しいことはなく、将軍が朝廷へと変わっただけであった。」と筑波町史はいっている。財政は旧幕時代と同様年貢米で行われていた。所謂税金は地租改正の後である。財政的には厳しかったようである。初代は粥川小十郎。石高約七万四千石、反高約六八〇町歩であった。
 若森県は新治県と茨城県・印旛県に分割されて廃された。知県事池田徳太郎は新治県の権県令となり、県庁舎は民間に払い下げられ、現在は木々に囲まれた個人の住宅と畑地になっている。
 次に茎崎地区を見て行くことにしよう。茎崎地区には十三の村があった。上岩崎、下岩崎、庄兵衛新田、高崎、天宝喜菅間、小茎、樋の沢、上大井、下大井、若栗、房地、房地新田である。村々には大名藩領、旗本領が混在し、茂木県(旧谷田部藩領)、牛久県(旧牛久藩領)、前橋県(旧前橋藩領)、宮谷県、土浦県の一部を構成していた。明治四年四月一日に十五県が合併して新治県となり、明治八年五月七日茨城県、新治県と千葉県の一部と合併して茨城県となった。
 自由ヶ丘は大きく上岩崎、下岩崎、庄兵衛新田から成り、上岩崎は前橋藩領と三人の旗本領(阿部四郎五郎知行地・窪田錠吉知行地・上杉源四郎知行地)、下岩崎は三人の旗本領(渡辺四郎知行地・村上友之助知行地・村上内記知行地)、庄兵衛新田は前橋藩領分でした。上岩崎・下岩崎は相給地であった。上岩崎は茂木県、下岩崎は前橋県・茂木県・宮谷県、庄兵衛新田は前橋県から始まり、新治県となり、明治八年に茨城県になるのでありました。
 明治二一年地方制度の諸制が公布され、茨城県では明治二二年「町村制」が施行された。茎崎町の誕生である。明治二九年「郡制」が施行され、稲敷郡茎崎村となり、平成十四年つくば市と合併するまで続くのである。明治の「市町村制」が始まって以来、昭和の大合併でも合併しない町村は三町村ありましたが、平成の大合併で茎崎町がつくば市と合併し、七会村が合併し城里市なりましたので、百年以上孤塁を守っているのは五霞町ただ一つとなりました。
 さて、明治二二年に現行のような地方制度が始まるわけだが、明治五年から明治二二年の間に「大区小区制」が行われるのである。明治四年戸籍法、所謂「壬申戸籍」が布告された事によって、明治五年から「大区小区制」が実施された。戸籍区を設け、区ごとに区長・副区長、戸長・副戸長を置き戸籍事務を担当させ、戸長役場を設置した。
 明治五年に五大区五一小区に編成した新治県管轄の茎崎地区は第一大区に属し小八区・小九区・小十区に分かれていた。明治八年茨城県と合併してからは第九大区となり六小区・七小区に分属していた。明治五年には自由ヶ丘地区をなす旧大字を見るに庄兵衛新田は小八区、上岩崎・下岩崎は小九区に属していた。明治八年改正時には庄兵衛新田・上岩崎・下岩崎すべて六小区に属する事になった。
 「大区小区制」は猫の目のように改正され、なじみにくかった。そこで明治十一年「地方三新法」が公布され「郡区町村編成法」によって、「大区小区制」が廃されて「県-郡‐町村」に編成替えを行った。現在郡は名目的だか郡長が任命され、郡役所が設置された。茎崎地区を含む河内郡は、信太郡と合わせられ、江戸崎の大念寺に信太・河内郡役所が設置された。町村は編成替えがおこなわれ連合村を形成するのである。茎崎地区は四つの連合村に其々属していた。庄兵衛新田は牛久駅外八ヶ連合、上岩崎・下岩崎は岩崎三ヶ村連合を組んでいた。連合戸長及び連合戸長役場が設置された。明治一七年改正で庄兵衛新田は牛久村、上岩崎・下岩崎は高崎村連合を組んでいた。地方制度の大改正が明治二十一年に行われ合併により茎崎村が誕生するのである。自由ヶ丘は昭和六二年に行政区として地名になるのであった。

参考文献 茎崎町史・筑波町史・桜村の歴史